311は311として東北の被災者の方々へ祈りを捧げる日ですが、私にとっては毎年、父の命日を迎える3月でもあります。今年で父が亡くなって18年が経ちます。57歳でした。悲しみは薄れますがなくならないし、いつも父の思い出は私の心のなかにあります。

しかし、父が本当に楽しそうに過ごしていた頃の写真は………。どこにも見当たりません。

私の父は、典型的な仕事人間でした。というのも、岡山で漁師の家系にも関わらず6人兄弟のなかで特に優遇されて神奈川の大学へ進学させてもらったものの、1年目で実父、つまり私の祖父が事故死してしまい、大学を中退し、そこからずっと同じ会社で人生を全うしました。

父の勤務先はプラスティック原料に携わる製造業で、実は、世界中のファミコン、ゲームボーイ、スーパーファミコンなどは、父の勤務先が下請けの一社でした。なので、もしかしたら、これを読んでいたあなたが遊んでいたゲーム機はもしかすると、私の父の勤務先を経て出荷されていたかもしれませんね。

毎日朝早くから夜遅くまで、作業着を汚して働いていました。家ではいつもしかめっ面で、あまり笑うことのない父でした。休日は遅くまで寝て、家でゴロゴロするしかないような人でした。

しかし、ある期間、びっくりするほど父がイキイキと休日、出掛けていった時期があります。80年代後半から90年代にかけて、父の勤務先の工場で日系ブラジル人を大量に雇っていたようです。

私が「キャプテン翼」にハマったのをキッカケに、弟もサッカー少年団に入部し、毎週末、両親は弟の応援に熱中していたこともあって、サッカーバカな家族でした。

父は日系ブラジル人たちと親しくなり、さらに彼らとサッカークラブを結成することになったようでした。そして素人ながらも監督に持ち上げられ、毎週末、郡の社会人サッカーリーグへ参戦するようになりました。

正直、その頃の父は私がこれまでに一度も見たことががないほど、イキイキとしていました。一時期、どうやら郡のサッカー協会にも関わっていたらしく、それまでは毎週末、昼過ぎまでぐったり寝てばかりいた父が、土日の早朝から意気揚々とサッカーへ出掛けていくのを、私は当時、半ば呆れて見送っていました。

人間こうも変わるものか、と(笑)

しかし、ある日を境にパッタリと週末サッカーへ出掛けなくなり、また再び、もとの静かな父に戻りました。どうやら会社の業績不振で、日系ブラジル人の人たちが解雇されてしまったようでした。

父が亡くなり、遺影を探していて思ったのは「あのときの写真はないのか?!」ということでした。父が本当にイキイキと過ごしていた日々の写真があれば、それこそ遺影にふさわしいのに!と、今でも悔やんでも悔やみきれません。

その悔しさが、私の家族写真家としての原動力でもあります。いつの日か、どこかで当時の父の写真と出逢えることを夢見て。