家族写真家ハマノヒロユキのものがたり


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こんにちは! 家族写真家のハマノヒロユキです。

はじめまして、の方が多いとは思いますが、

きっとおそらく、ぼくのことを知っている人も
断片的なことしか、ご存じでないはずです。

「家族写真家ハマノヒロユキ」が誕生するまでを
簡単にまとめてみました。よければご覧ください。


1973〜1979(誕生〜幼少期)

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大阪市天王寺区にある「聖バルナバ病院」で生まれました。
大阪では結構有名な、歴史ある産婦人科だそうです。

ここは「ヴォーリズ建築」としても有名でしたが、
残念ながら、2005年に建替されてしまいました。

両親は岡山県出身で、当然祖父母や親戚も岡山多し。
典型的な第二次ベビーブーム世代の都市型核家族。

大阪市では、旭区、城東区に住んでいました。
写真は、蒲生幼稚園への入園記念です。

マンションの前に小学校が建設される予定で
てっきりそこに通うものだと思ってたんですが…。

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1978年に弟が生まれ、翌年、
父の転勤で滋賀県に引っ越しました。

かつて東海道五十三次の宿場町として栄えた
「水口」(みなくち)という古い田舎町でした。

偶然、町内の公立病院や幼稚園、旧図書館が
ヴォーリズ建築だったので、なんだか
ヴォーリズさんに見守られている気がしました。


1980〜1986(小学校時代)

小学校時代は、自分でいうのもなんですが
どちらかというと優等生で人気者というか、
学校ではわりと目立つタイプでした。

関西で育った影響でお笑いが大好きになり、
クラスメイトを笑わせて楽しんでいました。

ただ、高学年になると、いろいろな違和感が出て
教師や親に対する不信感が大きくなりました。

小6の2学期、とうとう嫌気がさして
登校拒否や家庭内暴力で荒れ始めました。


1986〜1988(中学時代)

登校拒否でひたすら自分の世界に没入。

ファミコン、パソコン、ラジオ、テレビ、
パソコン雑誌、小説、ゲーム音楽に
どっぷり浸かってましたね〜。

しかし、中1の担任で「黒ゴリ」という
ユニークな先生との出逢いがありました。

なんとかぼくを学校に登校させようと
あの手この手で必死に立ち向かってきました。
少しほだされて通うようになった時期もありました。

いまでは、数少ない恩師のひとりです。

ただし、中2で学区編成があって
もとの小学校のメンツに逆戻り。

教師の暴言にブチ切れて、結局、
学校へは行かなくなりました。

傍目には学校にも行かず、
ひとりでボーッと遊んでました。

ただ逆に「社会でどう生きるのか?」という
問いを直接、突きつけられた時間でした。

将来、自分と同じような境遇の子どもたちに
日本でもっとも夢や希望、感動を与える人になる、
という志で、高校・大学への進学を決意しました。

当時の夢は、ゲームクリエイターになることでした。


1989(高校浪人)

そうはいってもまったく勉強しておらず、
あえて高校浪人をする選択をしました。

英語塾に通わせてもらい、とりあえず英語だけなら
県内のどこの高校でも大丈夫、と言われる程度に。
あとは、ひたすら図書館に通って本を読みましたね。

高校入試は400名以上、年下の中学生のなか
たった一人で、私服の受験。

超がつくほど、ジロジロ見られました。


1990〜1993(高校時代)

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定期試験で3年間、ひたすら1位を獲り続けて
指定校推薦もしくは一芸推薦を狙うという戦略を
ひそかに、地道に、実行し続けていました。

が、入学当初は慣れない集団生活でノイローゼに。
そこで精神科のカウンセリングを初めて受けて
「臨床心理」やカウンセリングに興味を持ちました。

ますます、大学で心理学を学びたいと思いました。

最終的に指定校推薦で、運良く志望校に合格しましたが
残念ながら、指定校枠は唯一、「東洋史」専攻でした…。

高校最後の年は素晴らしいクラスメイトに恵まれ、
この想い出を一生忘れたくない!と「写ルンです」で
みんなとの想い出を撮りまくっていました。

いまから思うと、あのときただの写真屋でした。

でも、フォトグラファーになろうなんて
微塵も思わなかったんですよね。不思議です。


1993〜1996(大学時代)

無事、志望校に入学しましたが、最初は大変でした…。
偏差値40台の高校から、関西有名私大に紛れ込んだ感が…。

結局、4年間、あの手この手で必死に試験を凌いで、
卒論と口頭試問は、当時もっとも厳しいと評判の先生から
A評価をもらえたので、今となっては良い想い出です。

心理学を勉強するのと、学校教育の問題を理解するため、
わざわざ、教職課程をとりました。教育実習もしました。
結局、学校だけで教育を変えることは不可能だと思います。

閑話休題。

大学入学前、生協の新入生歓迎企画で出会った先輩達に憧れて、
「立命館大学生協学生委員会」というところに入ったのですが…。

マジで、ただの、「虎の穴」でした…。

今思うと2年半、ひたすら大学生協という非営利事業の
インターンシップに明け暮れる毎日でした…。

引退後は、インターネットとパソコンにハマりました。

そして、就職活動でインターネットを通じて
全国の大学生たちと知り合い、それを後輩たちに
伝えていこうぜ、ということで書籍を出版、
“JobWeb”という就職活動の情報交換を目的とした
Webサービスの立ち上げに携わりました。

大学には往復4時間以上かけて通っていました。
我ながら、よく頑張ったな、と思います…。


1997〜2012(社会人になって)

就職先は愛知県、名古屋に引っ越しました。
偶然、イチロー選手の実家のすぐ近くでした。

もともとゲームクリエイターになるつもりでしたが、
結局、サラリーマンとして会社の方針に沿って
ゲームをつくっているという側面を知りました。

だったら、これからは消費者の時代だから
お客様の立場で売る側にまわることにしました。

全国に類を見ない大型TVゲーム専門店チェーンを
展開しているというベンチャー企業に就職しました。

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流通系とはいえ、ベンチャー企業だったので
かなりさまざまな経験を積みました。

楽天市場に出店してネットショップを運営したり、
販売促進や売場のセールスプロモーション、
中古ゲームや中古CDのマーチャンダイザーなど。

同じ会社で何度も転職したかのようでした。

2001年3月、父を末期癌で亡くしました。
遺影どころか、まともに父の写真がなくて
あまりのショックに呆然としました。

両親との葛藤どうこう言ってられなくなりました。
いろんな事情で、ぼくが一家の大黒柱になりました。
父の偉大さを初めて、心底理解しました…。

その後、偶然、ある心理学と出会い、
ひたすらワークショップを受講し続けて
家族関係の改善にとりくんだのです…。

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家族関係は劇的に改善していきました。
自分の内面を癒していくことで、
不思議なことがたくさん起こりました。

「もっと、家族を幸せにする仕事がしたい!」

という情熱が湧いてきました。

勤務先での仕事に限界を感じるようになり、
独立起業を模索し始めました。

そして、より多くの家族を幸せにするために
もっとも有効な手段を突き詰めて考えた結果、

「ウエディングフォト」と
「家族写真」に辿り着きました。

現在、日本で一般の方々が家族写真にもっとも
高額な料金を支払うのは、結婚式の写真です。

その後も継続的にご家族に関わっていく、
そういう営業スタイルはほぼありません。

担当したお客様ご家族を責任もって
見守り続けていくビジネスモデルをつくる。
そう決めました。

そのためにまず、日本でトップクラスの
ウエディングフォトグラファーになると決意。

日本最大手の結婚式撮影事業部に転職しました。

shimei_hhamano

そこで厳選された指名フォトグラファーに認定され、
お客様から何十件もの指名を頂戴する実績を積み上げ、
フォトグラファーとしてのキャリアを磨きました。

そんなある日、東日本大震災が起こりました………

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