単に家族写真を撮るだけでなく、
家族関係の専門家として関わりたい

略歴(とはいえ、略しきれない)

  • 1973年8月、大阪市生まれ。聖バルナバ病院で産まれる。
  • 岡山県倉敷市児島の下津井で最低でも150〜200年続いたと思しき、伝統的漁業経営者(網元)の末裔。
  • 1979年〜、滋賀県で育つ。
  • 小学校6年〜中学3年間、登校拒否。
  • 一年間、英語塾に通わせてもらい、高校浪人の末、地元高校へ進学。
  • 慣れない集団生活でノイローゼと不眠症にかかり、カウンセリング初体験。家族関係と臨床心理学に興味を抱く。
  • 1993年、立命館大学文学部入学。
  • 1996年、JobWeb Japanの立ち上げに携わる。毎日コミュニケーションズ刊「学生が書いたインターネット就職本」執筆メンバー。
  • 1997年、立命館大学卒業。愛知県のメディア小売チェーン本部に就職。
  • 2001年3月、父を末期癌で亡くす。父親の写真がない! 遺影がない! 家族の写真がない! という衝撃に打ちのめされる。
  • 家族関係を改善するために心理学を徹底的に学び、実践するうちに、家族に直接関わる仕事がしたくなる。
  • 大手結婚式撮影事業会社に転職、ウエディングフォトグラファーへ転身。
  • 2011年、東日本大震災。6月、勤務先の東日本大震災ボランティアプロジェクトのリーダーとして南三陸町に派遣される。
  • 2012年秋、南三陸町に移住し、家族写真家として独立。
  • 2013年秋、住居の事情から仙台市青葉区に拠点を移す。
  • 2014年、Apple Store仙台一番町でのワークショップを皮切りに、翌2015年にはApple名古屋栄、Apple心斎橋、Apple表参道でワークショップツアーを開催。
  • 2015年秋、家族の事情で滋賀県甲賀市に移転。
  • 2018年秋、滋賀県近江八幡市を拠点にする。
  • 十数代に及ぶ家系図を眺めていて、インスピレーションを得て、濱野丞助(ハマノジョウスケ)と名乗り始める。

家族写真家ってなんなんですか?

家族写真を撮るから、家族写真家ではありません。家族関係の専門家として、家族で起こりうるさまざまな問題に精通し、結婚式や家族写真の撮影体験を通じて、ご家族様の平和や幸せに貢献すること。それが私の提唱する「家族写真家」構想です。

ルーツ

1973年、いわゆる第二次ベビーブーム世代のピーク時に大阪市で産まれた私は、父と母、そして5歳年下の弟という「いかにも」な核家族で育ちました。両親はともに岡山県倉敷市児島の出身で、ほとんどの親戚縁者はもちろん、その周辺に住んでいました。両親ともに6人兄弟だったので、いとこは多かったですね。年の近いいとこや、本家のいとこのお兄さん、お姉さん達には随分と可愛がってもらいました。今思えば、幼少期にこういう大家族的な親戚関係に恵まれていました。ただ、大阪の小さな分譲マンションで生まれ育ったぼくは、兄弟姉妹のように感じるいとこたちと離れて暮らすのが本当に寂しかったですね。お盆休みに帰省するのが1年で最高の楽しみでした。

小さい頃からアルバムを眺めるのが大好きだった

その後、父親の転勤で滋賀県に引っ越してからは、夕食後によくアルバムを眺めていました。ぼくら世代の幼い頃はというと、フィルムカメラしかなくて、大きなアルバムに何枚もの写真が挟んであるようなものが一般的でした。よくよく探すとスタジオで撮影した記念写真もあったのですが、ほとんどまったく見向きもしませんでしたね。誰が撮ったのかはわからないけれど、何気ないスナップ写真が大好きでした。今思えば、父親だけでなく、写真やカメラの大好きな親戚のおじさん達が撮ってくれていたのでしょうね。

そのアルバムを眺めては、遠く離れて暮らしている大好きなおばあちゃんやいとこたちと再会するのをひたすら楽しみにしていました。正直、あんまり滋賀県には馴染めなかったんですよね(笑) 一応、そこそこの優等生ではありましたけど…。

クラスの優等生が一転、登校拒否で荒れる

小学校5年生のときに、極端に人間不信になるような些細な事件があったり、学校の担任や母親から勉強などの面でやたらとプレッシャーを受けるようになり、猛烈に反発するようになっていきました。いろんなことが積み重なって、心に溜め込んでいたネガティブな感情が大爆発しました。小学生の頃、ご近所のおばさんから「うちの娘の婿に欲しいわ〜」とか冗談混じりに言われていたらしいのですが、小6の2学期を境に登校拒否をスタート。大人たちに猛反発しました。担任や校長が家庭訪問したら、ボロクソに暴言混じりの批判を浴びせて追い返すようなタイプでした(笑)

将来なりたい夢を抱き、なぜ自分のような子どもが生まれるのか
謎を解き明かしたかった

小6〜中3までまるまる、ほとんど学校には行きませんでした。言ってみれば、小学校も中学校も中退したようなものです(笑) ただ当時、ゲームクリエイターにものすごく憧れて、将来はゲームをつくる仕事がしたいと思い詰めて、おかげで真剣に自分の将来について考えさせられました。中卒で家出して東京で働こうかな?とか、真剣に思い悩んでましたね。とはいえ、あまりにも非力だったので、とりあえず高校と大学に進学することを決意しました。15歳ぐらいでそうやって自分の人生に向き合ったことで、ますます、良くも悪くも同級生とはわかりあえない関係になりました(笑) 結果的に一年浪人して地元高校に入り、高校からはストレートで大学へと進学しました。

結局のところ、教育では何も変わらないと思いました
だから、就職で社会を変革する道を選んだのです

大学には片道2時間以上掛けて4年間通いまして、しかも全国的にも超ハードで有名なあるサークル活動?にのめり込んでいたのですが、副専攻で教育学をとったり、教職課程も選択して、高校ですが教育実習にも行って、自分なりに学校教育と登校拒否について考え続けていました。結論としては、公の学校教育制度は、富国強兵を達成するために導入された明治時代からほとんど何も変わっていないんですよね。より多くの子どもたちを為政者にとって都合良く動かすための「コマ」とか「一兵卒」を量産するためのしくみだと思いました。それまで散々教師をボロクソに批判して生きてきたのですが、事情も知らずに批判するのは失礼だなと思ったので、一応、教師が実際に製造(笑)されるプロセスをわざわざ実地検証しましたが(笑)、結局、学校の先生になるという選択肢はありませんでした。教員免許は一応取得しましたが、学校制度の歯車になったところで社会は変わらないと思ったんですよね。あくまでも、私の感覚です。

父が死んで、家族関係と真っ向から直面することに

26歳のとき、父が末期の胃ガンで亡くなりました。57歳でした。もともと登校拒否とかで荒れるような家族関係でしたが、一方で、大学も私立の志望校へ行かせてもらいましたし、「お金がない」というのが母の口癖でしたが、やりたいことは徹底的にやらせてもらえました。父を失って、産まれて初めて、父が偉大だったということに気づかされたんです。出世とかとは無縁な人でしたけど、故郷を離れて自宅を建てて家族を養う、ということがいかにものすごいことか、心底痛感しました。逆に、自分がこの家族を支えていかなければならないのか、と思いました。とはいえ、家族関係に大きな葛藤を抱えていて、それもうまくいかない日々が数年続きました。

心理学を学び、家族関係を改善することに成功

あるキッカケで、30代ぐらいの頃、心理学を学ぶようになりました。セミナーを受けて、そこで出されるいろいろな課題にとりくんでいくわけですが、それによって徐々に家族関係が改善されていきました。学んでいた心理学では「すべての人間関係のベースは家族関係にある」と言われて、実際そのとおりだな、と思いました。どうせ学ぶなら誰かに教えたり、カウンセラーとして活躍したい…と、そんなふうに思うようになって、合計3年ほど、徹底的にワークショップを受講しました。一方で、臨床心理士の資格をとることも考えましたが、それも何か、根本的に自分がやりたいこととズレているなあ、と感じてモヤモヤしていました。漠然とですが、1999年頃からずっと起業する、というイメージが自分のなかにありまして、臨床心理士になることとは大きなギャップを感じていたんです。

家族関係の専門家としての家族写真家

さまざまな試行錯誤、紆余曲折の末に辿り着いたのが「家族写真家」でした。単に結婚式や家族写真を撮るだけでなく、家族関係の専門家として親御様やお子様たちに関わり続けることができたら、助けになれるのではないか? そんなふうに思ったんです。家族写真を撮るだけなら、たぶんそんなにたいした技術は要らないかもしれないけど、超高額サービスの結婚式撮影ともなると、そうはいきません。専門的なトレーニングでさまざまなことを学ぶ必要がある、そう考えた私は、ウエディングフォトグラファーとしてのキャリアをスタートしました。業界最大手にも関わらず、年収は約半分、200万円台まで下がりました………(ブライダル業界は本当におそろしいところです。万人にはお勧めできません)。

そして東日本大震災を経て、家族写真家として独立することになったのです。