心理学で「シャドー」という概念があります。要するに、「死んでもこんなヤツになりたくない」「この人と一緒にいるぐらいなら死んだ方がマシだ」ぐらいに嫌いな人のことです。
一応解説しておくと、これは「自分のなかにある自己概念のなかで、もっとも忌むべきもの」がシャドーとしてあらわれます。だから、もしあなたがお節介な人をして「あいつ、腹立つわ!」とかいつも言っているのだとしたら、単純に、自分の嫌いなお節介という性格を他人に投影して、さも自分は無実であるかのように振る舞って、自分自身に対する嫌な感情を遠回しに感じているに過ぎません。
そして、このトラップはなかなか手強くて、あまりにもシャドーを受け容れがたいものとしていると、自分自身がシャドーに乗っ取られる、シャドーそのものになってしまう、というパラドクスを生みます。
有名なのは、スターウォーズのダースベイダーですね。ジェダイの騎士として立派な存在だったアナキン・スカイウォーカーが、気がついたらダース・ベイダーになっている、というお話です(かなり端折りますが)。
もうひとつ補足すると、シャドーというのは親しければ親しいひとにほど、現れやすいという特性もあります。人間関係の成長段階、発展段階のひとつ、ぐらいに思っておくと、救われやすいですね。
大好きだった人が憎くなったからといって、別に人間関係を断ち切る必要はなく、むしろそのように感じられるようになるぐらい親密さが出てきたのだ、と思えばいいのです。その先に進むにはちょっと勇気が必要ですが。
ところで、写真の世界では美しく撮ろうとするときに、「逆光」を上手に利用します。
多くの方は逆光で撮ろうとすると被写体が黒くなるので、苦手意識をお持ちかもしれません。これはあくまでもカメラの機能的な問題でそうなるだけで、逆光というシチュエーション自体には何の問題もありません。
むしろ、いにしえから日本では「後光が射す」というぐらい、逆光というシチュエーションには神々しさを随分昔から感じてきたことを思い出してみましょう。
ひとに限らず、大半の生命には明るい光を目指す、という特性があると思います(生物学的にプロではないのでわかりませんが、植物一般や人生の比喩などから察するに、です)。
つまり、向かう先が眩しければ眩しいほど、その方向にいる人影は暗く見えます。これが、シャドーをつくりだしているだけなのです。
明るさに反比例して人物の表情が暗く落ちてしまうから、そのひとの表情がはっきりと見えなくて、もどかしくて、ついつい、自分にとって「都合の良い」表情を相手に仮面として張り付けてしまうのです。
これが、シャドーという概念の本質です。
だから、もしあなたが誰かを憎んでいるとしたら? ま、考えればわかりますね。
さて、写真のことに話を戻します。
美しく静物や人物を撮るときに、プロないしハイアマチュアと呼ばれるカメラマンは逆光を上手に利用します。なぜなら、さきほど言ったとおり、「後光が射していると人は美しく感じる」と知っているからです。
とはいえ、光をキレイに撮るためではなく、被写体そのものをキレイに表現するための工夫として、被写体が真っ黒にならないよう「露出補正」をするのです。
人間の眼はものすごく精巧かつ緻密で優秀なレンズなので、意識してフォーカスするだけで、勝手に露出補正してくれます。
しかし、カメラはまだそういう段階には至っていないので、あくまでも撮る側が調整しなければなりません。それが「露出補正」です。
人生、そして人間関係にも、露出補正という概念は必要ではないでしょうか。